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  • 2018/07/24
  • ちょくマガ編集部

愛のギロチン ~Part1「退職の決断」

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「おい、あんた」

空耳かとも思ったが、「おい」と再度呼ばれて、足を止めた。

「こっちだ、こっち」

声は階段の下、いや、道路の方からしている。

振り返ってそちらを見ると、マンションに接している細い道路、そこに置かれた自動販売機の前に、誰かが座っているのが見えた。

自動販売機の発する白い光の中に、頭の白い老人が浮かび上がっている。

「……」

状況が飲み込めず俺は黙って見ていた。

「そう、あんた。あんただよ」

老人はそう言って俺を指さした。やはり俺に言っているらしい。
一体なんだ? 酔っぱらいか、あるいは、痴呆老人か。

「ちょっと、こっち来てくんねえか」

無視しようかとも思った。いや、普通ならそうするべきだろう。
もしかしたら幽霊のたぐいかもしれない。

………だが、残念ながら俺はこういう状況に弱いのだ。強いられたらどうしても断れない。

この性格のせいで上司にもクライアントにも随分無理をさせられてきた。
年齢を経ようが会社を辞めようが、この性格は簡単にはかわらない。

仕方なく上ってきた階段を降り、集合ポストの前をぐるりと回り、老人のいる場所まで行った。

「……なんですか」

 自販機の強い光に目を細めつつ聞くと、「動けねえんだ」と老人は答えた。

「……動けない?」

「そこでコケたんだよ。ちょっと足を痛めて……歩けねえことはねえが、階段はちょっとな」

そう言って老人は、俺がさっき上っていた階段を指さした。
言葉はハッキリしている。頭は真っ白だが、ヨボヨボという感じはしない。

あらためてその顔を見つめて、俺は「あっ」と声を出した。

「……もしかして」

俺はそこでやっと、老人が同じアパートの住人だと気付いた。
確か、2階の一番手前の部屋だ。過去に数度、その姿を見かけたことがあった。

「そうだよ。あんたと同じ階に住んでるもんだ。つうわけで、ちょっと肩貸してくれや」

「……はあ」

言われるまま老人に肩を貸し、立ち上がらせた。

小柄だが痩せているわけではなく、肌が黒く活動的な感じだ。
年齢は60代後半くらいだろうか。一緒に歩き始めると老人は一度だけうっと呻いたが、そこからは何とか歩き出す。

「……大丈夫ですか。病院行ったほうがいいんじゃないですか」

「こんな時間に病院がやってるかよ、阿呆」

……クチの悪い爺さんだ。善意で助けてくれている相手を阿呆呼ばわりとは。
そして俺と老人は一歩一歩、ゆっくりと階段を上った。

2階の一番手前の扉の前まで来ると、「ここだ、俺んち」と老人は言う。表札には「大貫」とある。

「……じゃ、私はこれで」

そう言い残して廊下を歩きだすと、後ろから「おい、あんちゃん」と声がかかる。

「なんですか」

「あんた、名前は?」

「……崎野です」

「仕事は何曜休みだ」

「は?」

いったい何なのだ、この爺さん。どうしてそんなことを言わなきゃならない。

近所付き合いなどまっぴらだ。そもそも俺は今日、気分が悪い。頼むから放っておいてくれ。

「な、仕事してるんだろ? 休みはいつだ」

うるさいな、と思う。いま一番聞かれたくない話だ。

転職先も決まっていないのに退職だけは決まっているのだ。
だが、苛立ちよりも、情けなさの方が勝った。そんな自分が恥ずかしくてたまらない。

「土日休みですよ、普通に」

ムキになって言った。別に嘘は言っていない。
有給消化中ではあるが、ウチの会社は平日勤務で土日休みなのだ。

俺の返事を聞いて大貫老人はなぜかニヤリと笑った。

「てこたあ、明日は休みってことだ」

「……は?」

「じゃあな」

大貫はそれ以上は何も言わず、慣れた手付きで扉を開け、部屋の中に消えた。

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